花壇をつくる人と植物のはなし

 

先日も整地されたところにほったらかされている
花を摘んできました。
きょうはいつもお願いしている農家の方の処へ・・
少し曇った同じ天気のような表情で
「あそこの畑は売ったのよ!家は跡取りがみんな嫁いじゃったから・・
そんなタイミングで市や県から話が来てね、・・
・・介護施設を造るっていうから・・・・」
回りにはいろいろ言う人はいるけれど・・・・・・・・・   」

紫陽花の花にはいつもの様にカタツムリがいました。
当たり前の様に・・・でも、なんとなく紫陽花の花達、元気が
無い気がしたのは何ででしょうか?
丁度小雨が降ってきて、紫陽花にとっては気持ち良い筈なのに・・・・
これからの事、何となく知っていて泣いていたのかも知れません。
すでに茎が折れていたりするのもあって、それは「いつも」の
背の高さを超えるしっかり育った紫陽花の姿なのになにかが違う紫陽花の景色です。
「今年で君達のも会えなくなるんだね!・・・
長い間ありがとう・・20年以上だもんね!・・ 」

人が大切に育てた筈の花達が、やっぱり人の都合で
切られて捨てられるのは余りに寂しい事です。
学校の花壇のチューリップ、花が枯れこれから「種が出来る」
けれど、新しい苗を植えるから、と折り、抜いてしまう。
何か今の世の中を象徴しているようで悲しいです。
カタツムリの住むところが無くなるのが心配です。

 

毎日が生前葬

 

このところレコーダーに撮り置いたNHK朝ドラ「まんぷく」を
感心と関心を持って見ています。

この間は福ちゃんお母さんが夢で出てきた「さきちゃん」の言葉で
突然気が付くシーンがありました。
このドラマは即席ラーメンが開発される実話に基づいて作られているから、
そのアイディアが生まれ、それを実際に売っていくというとても
仕事をやっていく上に具体的なアイディアと心得を教えてくれるます。

(そんなところを見ている人達も多い気がします。)

で、福ちゃんのお母さんの気づいたこととはというと
「生前葬」をする事でした。
結核で早逝した「さきちゃん」が大切な時に夢に出てきます。
この時も病気で入院したお母さんは「私はいつ死んでもおかしくないのよ!」と、
歳をとっていく事に不安を感じ始めていました。
そんな中、お母さんの夢に出てきた「さきちゃん」にお母さんはこう問いかけます。
「早く死んでしまって心残りでしょ!」
「さきちゃん」は、こう答えるます。
「私はみんなにありがとうを言えたから幸せだったよ!」と答えます。

いつも思ってはいたけれど、「あ!そうでした、それでした!」と口か洩れるほど
大切な台詞がこのドラマには散りばめられているのを、もう一度実感した瞬間です。

「人はいつ死ぬか判らない!」でも、その死ぬという事自体より
人はそれまで出会った人たちに「ありがとう!」を言って死ねないのではないか?
と言うのが一番悲しくて、辛いのではないかなのです。
であれば、どうしたら良いのか?勿論福ちゃんのお母さんの選択「生前葬」も
有りですが、一番は毎日毎日、その時その時、を「ありがとう」を
唱える続けながら生きる事ではないでしょうか。

どんな時も誰にも「ありがとう」を言い続けて生きる!
何とか、というか心からそういう生き方をしたいと思いました。

生贄を飾る人々

 

かなり、恐ろしい題を付けてしまいました。でも、私にはそんな感じがピッタリなのでお許しください。

私は 昔、「ドライフラワーを作る」、次に「原色ドライフラワーを作る」
最後に「それを金や銀の花に作り上げる」ということをしていました。
それが、花の仕事をするようになったきっかけです。
その私が言う事ですから、是非聞いて下さい。
この頃又、初めから「出来ればドライフラワーになる花を!」と注文される客様が多くなっています。
  「ドライフラワーを飾る」 方や「ドライフラワーを作る」人たちの気持ちはとてもよく解ります。
 「この綺麗な花をいつまでも取っ手おきたい!」
この気持ちは花が好きでないと起こらない気持ちです。

「下絵を描いたキャンバスに生の花を貼り付け、枯れるのを待って、作品を作る方が居られると聞きました。
「芸術とはそういうものだ!」と思われる方には私の思いは伝わらないかも知れません。
これも昔、「ながのひろゆき 花と風の学校」のデザイン展で「二十年後のウェディングブーケ」という作品を出しました。いろいろな思いを込めた作品です。この時使ったのは「全てドライになった花達」です。決して敢えてドライにした花は使っていません。

綺麗なドライフラワーを作るためには、
● 今!綺麗に咲き始めた花を使わなくてはいけません。しかし、
大切な贈り物、大切な日の贈り物、自分でも他人への贈り物でも初めから逆さにして吊って飾りたいでしょうか?私には出来ません。
美しい物をそのまま!可愛い物をそのまま残したい!という気持ちはきっとそれを大切にしたいと思う方たち程強くあると思います。しかし、それは「欲」です。「欲」は否定しません。がいま、そこにある美しい命を大切にする事の方がもっと大切だと私は思います。いつか、いつの日か形ある物は失われてしまう。だからこそ私達の「心」にこそ留めよう!皆さんに知って欲しいと心から思っています。

だから、短くとも美しく生きようとしている「花」を飾って下さい。
日本では花は「飾る」ではなく「活ける」なのですから・・・・・・・!

今日は「逆さ文字の話」ではなく、「花を逆さに飾る話」でした。

P.S

「仲直りの為の花」
少しでも早く「仲直り」出来る事を祈っています。
だって、一日だって、ほんの少しの時も大切な大切な人生の時、
「仲良く」暮らす事はとても大切ですから。

 

HIRO

 

 

 

 

風はみえますか ・・・・・・・2

 

「数学で導き出された、錯視の世界。
「数学は元来解っていることを説明する」ものとして
考えられているけれど、新しく作り出すことも出来る。という
思いで様々な錯視が起こる物を作り出している数学者が居られます。」
明治大学先端数理科学インステュート特任教授の杉原厚吉さん等です。
但し、何故「錯視が起こるのか?」は解かれていないと・・・

これに対して「逆さ文字の世界」では明らかにこれが長い間 「脳」が
置かれてきた環境とその環境を作ってきた人間によると考えます。
例えばこの錯視の世界で顕著なのが人は「直角に観る」という癖が付いているのではないか!という仮定です。即ち、人が生きているこの生活空間が殆ど「四角い世界」になっているため。と言うものです。

最近、お店の近くの旧東海道筋の街並みまで高層のマンションが建ち始めています。これによって「空が四角くなる」という現象です。都会では多分見上げても「空は四角く」切り取られています。

こういう環境が当たり前になった時、人間の脳は多分「空は四角い!」
と判断するようになるということなのです。
これは「今の当たり前」を疑え!という逆さ文字の世界と共通しています。
そして、大切なのは「学習」する。というのは「脳」のひとつの作業で、「思い込む」という事なのだと私は考えています。

 

錯視の世界

 

 

 

 

風は見えますか ・・・・・・・ 1

 

以前、雲南省 ・ 麗江に行った折図らずもそこで
古くからの雲南の音楽を紹介する会場で「竹鼓」を
披露することがありました。今思えば「竹鼓」を演奏するには
かなり難しい環境だったと・・・申し訳なく思っていますが、それでも
そこで聞くことが出来た「歌姫」の歌声に魅了されました。

唄のテーマは「山を渡る風」、・・・・・
で、五オクターブは出るという声にも驚きましたが、それより
驚いたのは「音階が五線譜の音符に依らない」ことでした。
判りますか!
「音階が五線譜の音符に依らない」とはどういう事か?
「音」を五線譜によって分けず、すべての音の波長のまま・・
即ち、自然界に存在する音をそのまま波長の緩い(音の低い)
所からたどって短い波長(高い音)へ移行していく
自然音階と呼ばれる歌い方をされていたことでした。
「自然音階」が正しい名称かどうか?高校のとき習った気もするんですが・・・

いくらここで、言葉で説明しても、五線譜上の音符で音楽を
聞き慣れている私達には絶対、聞かないと判らない!ものです。
現在の私達が聞き慣れている規則のある音楽とは全く異なります。
というより、そもそも「音楽」に規則と言うものがあるのか?疑問を持つ
きっかけにもなるほどそれは衝撃でした。
「音階」についての話はこの際、省きますがそもそも「音」は「音波」、耳に伝わる振動の違いって学んだ気がします。
波長の高低や間隔で「音」が変わる。というものだった気がします。
話が「風」から「音」へづれてしまいそうなので、「音」についてはこの位に・・
でも、何故「音の話」を始にしたのか?だけは説明をします。
私達はよく「風」の音を聞くと言いますが、それは本当に「風」そのものの「音」でしょうか?
多分それは、たまたまそう言っているだけで、実は「風」そのものの音ではない筈です。何かに当たって出る音、即ち、振動させて出ているだけで「風」そのものの「音」ではないということ。
ですから「風の音」そのものの音は誰も聞いたことがない。というのが本当ではないかと考えます。

同じ様に「風に舞う」ものは見ていても、「風」そのものは見ていない!
のではと言うのが、この質問の意味です。

 改めて、お聞きします。あなたは「風」を見たことがありますか?
「風」は見えますか?

・・・・・・・
きょうも青い空を雲が流れていきます。
きっと、空の上の方には風が吹いているのだと・・・・・私達は思います。

 

 

 

表と裏の考え方 「個」と「群れ」

「個性の違い」、或いは「人、それぞれみんな違う!」のだから
などという言葉を私も今の社会も良く使っています。

昨日の夜、家に帰って間もなく電話がありました。キッシーからです。

「あのー、ネコ達が一緒になって寝ています。」
「え?」
「だから、一緒になって固まって寝ているんです。」という報告でした。
このところ、それぞれがバラバラで寝ていて
みんなひとり立ち!?と思っていた矢先だったので、珍しかったのです。
寒くなってきた所為だと思いました。そしてこんな事を思ったのです。
「何だかんだ言っても人は群れる!」「みんな一緒!」がいいのはこういう事の為なんだなと。
寒い風が吹く季節になると人恋しくなる!のは人間が群れることによって自らを守るという歴史があるからではないか、と思いました。

 

そして、今の社会は逆に「個人」「一人」を声高に叫び始めています。  多分それは今の社会が「群れ」の縛りを強く感じられるからではないか?即ち、今の社会は「個人、個人の集まり」としての群れではなく、「群れが先行する社会」となっているからだと思のです
格差社会も同じように、「東京と言う塊、群れ」と「地方と言う群れ」に分けられ、世界では「アメリカという塊」「ヨーロッパという塊」「アジアと言う塊」・・アメリカでは「白人と黒人の塊(群れ)」「金持ちと貧乏人」と・・・・・限が無い程この社会は「塊(群れ)」を作り始めています。まるで昔がえりです。
何故でしょう?私は今の社会で「自分と言う個」が守りにくくなってきているからだと思うのです。「群れを作って自分を守る」を又、目指している。という事かも知れません。そこでは「個」よりも「群れ」が優先されます。「個よりも群れが優先される社会」は戦争が起こりやすいと私は考えます。殺人は「個」が起こしますが戦争は「国という群れ」が起こすからです。

馬鹿な思い込み パート2 ホワイトデーに

お店をやって43年、「まったく進化しない!バレンタインデー!」と前回書いた。                                      で、今日!ホワイトデーである。

この日のベティブーフは男性のお客様が圧倒的に多い。何故かは前回の「女も馬鹿だが!・・・・」を読んで頂いた方にはお分かりの事と思う、が、「世の中の思い込み」を払拭したく敢えてもう一度申し上げておこうと思う。特に思い込みの強い女性の方、或いは「常識!」とか「当たり前」とか「ふつう!」とか振り回して平気でいる女性に申し上げたい!

世の男性の多くはバレンタインデーにチョコレート等欲しくもないし、ましてや「義理チョコなど貰っても嬉しくはない!」のである。にも拘わらず、同じことを繰り返して平気なのは「進化していない!」という事なのだと思うのである。                                確かにそれでも、女性は様々な機会に「花を贈る」ことはする。これはある意味不思議である。多分だが、社会的役割分担!の可能性が高いと私はおもっている。すなわち、炊事、洗濯は女性の仕事!的な・・と。 これが災いしてか「男性に花を贈る心」が抜け落ちてしまった。という事なのではないか?                                      今日も、多分明日も「結婚記念日に花を贈る」のは男性が圧倒的に多い事!これは世のすべての女性にしっかり知っておいて欲しいことなのである。

 

馬鹿な思い込み・・・おんなの男感・おとこの女感

 

「とにかく女も男も馬鹿だ!」と思う事が多い。これは感覚としてではなく、客観的に理論的にである。                                    何故そう思うのか?こんな事をここでしたためると、顰蹙ものでまたまたお客様が減ると、あの彼女に言われそうなのだけれど、書かずにはいられない気性はいかんともし難いので、お許し頂こうと思う。        で、話の発端は長年に亘り言われ続けてきた女性陣から発せられる  「男性の方なので!」あるいは男性陣から発せられる「女性なので!」という言葉であり、こんな風な言葉が続くのである。                    「お年寄りの方なので・・」                            だから何なんだ?!と私はいつも思っている事を皆さんは多分知ることもなく今まで来ていると思う。                          女性のみなさんはこの言葉の後に「男性の方なので・・・あまり可愛いより」と口を濁す。ここに「お歳の方なので・・・・」と入れば私は殆ど怒りを感じているのだが、言われている女性の多くの方は全く意識できていないのである。                                       男女差別を言われて久しいけれど、男性より女性を「下に見る」という傾向を今までは戒めてきているようだが、差別は逆もなり立つことを社会は理解していない。たとえば、                        かの「バレンタインデー」である。チョコレート業界の策略は見事功を奏し、今では殆どの女性はこの日、いつもより高級なチョコレートを自分に買っている。日本では「女性が好きなもの」を考えて「バレンタインデーには男性にチョコレートを贈る」ことにしたのであって、独りよがりな思い込みを利用されたのである。これにまだブランド志向の女性さえ気づいてない。ここまで、思い込む日本の女性陣であるが、では、男性が「チョコレートパフェを好きか?どうか?」と同じように、j可愛い女性が好む可愛いものを男性は、好まない!と思っているのか? という事である。                                         「女性の化粧は異性の為のものではない!」と言われる方もおられると聞くがはたして言い切れるのか?                       中島みゆきの「化粧」という歌がある。                       「化粧なんてどうでもいいと思っていたけれど、今日だけは・・・」という歌詞に込められた女性の気持ちは本物だと私は思うのである。」 つまり、男性は老いも若きも「可愛いもの」「美しいもの」が好きなのは女性以上にあるのであって、世の多くの女性は大いに勘違いをして居られる!のである。そしてこの思い込みを女性に植え付けてしまった男性陣にはこれ以上の責任がある。と私は思っている。 

つづく 

    

「神」について

 

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四十五年前、教師を辞め「歌」の世界を目指したのは、「渡辺歌子」さんが歌った「黒ん坊の神様」というシャンソンが大きなきっかけでした。  強烈な感動を受けました。

「何故?神様は・・・キリスト像は・・・黒人ではないの?・・」という詩だったと思います。                                  そして、現在、私は「人」を「神」が創ったのではなく、やはり「神」は「人」によって作られたのだろうと、思って居ます。「神」という存在が居るかいないか?ではなく「宗教」という名の元にある「神」は作られたという事です。( 「神が居る」とか「居ない」を論じることは即ち「人が決める」事になりどちらにも矛盾が生じます。)

数限りない宗教が存在します。それは人種の違い環境の違いによって作られたからだと思われます。それにしてもイスラエル、或いはインド等肌の色がどちらかと言えば白くはない人種から生まれた宗祖にも拘わらずキリストも仏陀も肌の色は白く描かれるのは何故でしょか? それは多分、その宗教が根付いた歴史と地域が影響しているからだと私は思います。 例えば、始まりは中近東「イスラエル」なのにヨ―ロッパのほとんどの国の人がキリスト教徒の様に。です。

( この日本にも宗教はあります。が、一神教の宗教が殆どの世界の中でこれほど「神」という存在がよく言えば「おおらか」で悪く言えば「なんでもあり」という国というか人種は珍しい。「メザシの頭も信心から」と言われる程です。)                                 今回の命題の「神が人を創った」のか「人が神を作った」のかについて何故洗礼まで受けている私が「神は人が作り出したもの」と考えるようになったのか?を特にキリスト教の聖典である「聖書」の旧約聖書の「創世記」の冒頭から取り上げてお話しさせて頂こうと思います。

つづく ・・・