「辞典」の重さ

繰り返しになるが、辞書というのは「重たいもの」・・と観念しながらこの頃一ページづつ読んでいる。                                    この歳になって老眼用に虫眼鏡携え辞書を読むというのはなかなか苦労である。特に「漢字辞典」ともなるとかなり重たく、さすがにこれは寝転がって読むものではないと痛感している。                 これに耐えながらも読んでいくとなかなか薄っぺらなページの癖に全く先に進まない。なぜかというとひとつの文字に[注]等、様々に観なければならない事が多い。これを飛ばすと全く読んだ気がしないので、これも我慢して読む。それでもあまりに進まないときは「この辞書は何ページあるんだ?」などと一人ごちて、ページをパラパラめくってみたりする。「~ん、約1600頁ほど・・・・とすると1600頁割る365日では・・・・」等と思い描き、気を取り戻して読むのだが、ある時はたと気が付いく。「問題はページ数ではない」と・・・                          「一ページに含まれるその知識と歴史は並大抵のものではない」と気づくのであります。

その例を先の「歰」に続いてもう一つ。

・・・・・・・で、実は、この始めのページの一番最初の文字の「一」で躓いていたのである。そもそも、「一」という字が何で「イチ」と発音するのか?又、別に「ヒトツ」とも発音するのか?ここから疑問が湧いてしまったから大変である。そしてそれを追うように「壱」とも書く。元の字体はパソコンで不通に変換可能な「壹」ではなく、「壺」という字だという事にたどり着くのである。   ここに至って「壱」というアンシンメトリーな文字が「壺」というシンメトリーな文字が元だと知ればこれは唯事ではない!!とやはり思いを深くし、感心し!「ここには人間の歴史がある!」ともう一度感心し、心を入れ替えて、「この辞書の使い方」から読んでいる。という理由である。