わたしの母の兄弟は
千枝子姉さん、茂樹兄さん、昇兄さん、実兄さん、
そして末っ子母、みき子 の五人兄弟です 。
両親は 東京 高田の馬場で 大正の中頃から 昭和19年まで下宿屋さんを営んでいました。
何かと 忙しい父や母に代わって 姉や 兄に 面倒を
見てもらっていたそうです。
母のこのアルバムには 小学1年生の頃からの写真が 残っています。
不自由はあっても
まだ 日常生活を送れていた頃、
自宅の前で 二人の兄と...
当時、下宿されていた 学生さん達からは、
“テンプルちゃん” (くせ毛だったので) と呼ばれ
可愛がってもらっていたそうですが、
その中でも 特に 親しかった 植田さんです。
美術系の 大学に通い、将来は 舞台の美術関係の
仕事をするのが 夢だった植田さん。
戦地へ赴き、戦争が終わっても
帰って来られることは ありませんでした。
疎開先へも 持っていき、母が 今も大事にしている
このアルバムは、植田さんが
手作りして下さったものだそうです。
岩手県釜石へ 疎開後、
そこからさらに 疎開した 遠野で 終戦の日を迎え、
数日後には又、釜石の 親戚の家へ...。(昭和19年の秋から約1年の 疎開生活)
たくさんの思い出のある東京の家は 焼失。
出征した 二人の兄 ( 茂樹兄さんと昇兄さん) の戦死の知らせが
届いてからの 両親の 落胆はひどく、
東京には 戻らず、京都に 嫁いでいた 千枝子姉さんのところで 仮住まい生活が 始まったと 聞きました。
仮住まいではあっても、千枝子姉さんと 同じ家の2階で、
誰に遠慮することもない生活が 母は うれしかったそうです。
戦前、戦中 そして戦後75年...。
今年の夏、89歳になった 母。
人間で言えば同じ年の 茶々丸 (我が家の 愛猫)
が ひたすら、 グーグー💤 寝られるのが
「うらやましくて 仕方がない」
と言っています。
OTURU