風は見えますか ・・・・・・・ 1

 

以前、雲南省 ・ 麗江に行った折図らずもそこで
古くからの雲南の音楽を紹介する会場で「竹鼓」を
披露することがありました。今思えば「竹鼓」を演奏するには
かなり難しい環境だったと・・・申し訳なく思っていますが、それでも
そこで聞くことが出来た「歌姫」の歌声に魅了されました。

唄のテーマは「山を渡る風」、・・・・・
で、五オクターブは出るという声にも驚きましたが、それより
驚いたのは「音階が五線譜の音符に依らない」ことでした。
判りますか!
「音階が五線譜の音符に依らない」とはどういう事か?
「音」を五線譜によって分けず、すべての音の波長のまま・・
即ち、自然界に存在する音をそのまま波長の緩い(音の低い)
所からたどって短い波長(高い音)へ移行していく
自然音階と呼ばれる歌い方をされていたことでした。
「自然音階」が正しい名称かどうか?高校のとき習った気もするんですが・・・

いくらここで、言葉で説明しても、五線譜上の音符で音楽を
聞き慣れている私達には絶対、聞かないと判らない!ものです。
現在の私達が聞き慣れている規則のある音楽とは全く異なります。
というより、そもそも「音楽」に規則と言うものがあるのか?疑問を持つ
きっかけにもなるほどそれは衝撃でした。
「音階」についての話はこの際、省きますがそもそも「音」は「音波」、耳に伝わる振動の違いって学んだ気がします。
波長の高低や間隔で「音」が変わる。というものだった気がします。
話が「風」から「音」へづれてしまいそうなので、「音」についてはこの位に・・
でも、何故「音の話」を始にしたのか?だけは説明をします。
私達はよく「風」の音を聞くと言いますが、それは本当に「風」そのものの「音」でしょうか?
多分それは、たまたまそう言っているだけで、実は「風」そのものの音ではない筈です。何かに当たって出る音、即ち、振動させて出ているだけで「風」そのものの「音」ではないということ。
ですから「風の音」そのものの音は誰も聞いたことがない。というのが本当ではないかと考えます。

同じ様に「風に舞う」ものは見ていても、「風」そのものは見ていない!
のではと言うのが、この質問の意味です。

 改めて、お聞きします。あなたは「風」を見たことがありますか?
「風」は見えますか?

・・・・・・・
きょうも青い空を雲が流れていきます。
きっと、空の上の方には風が吹いているのだと・・・・・私達は思います。

 

 

 

表と裏の考え方 「個」と「群れ」

「個性の違い」、或いは「人、それぞれみんな違う!」のだから
などという言葉を私も今の社会も良く使っています。

昨日の夜、家に帰って間もなく電話がありました。キッシーからです。

「あのー、ネコ達が一緒になって寝ています。」
「え?」
「だから、一緒になって固まって寝ているんです。」という報告でした。
このところ、それぞれがバラバラで寝ていて
みんなひとり立ち!?と思っていた矢先だったので、珍しかったのです。
寒くなってきた所為だと思いました。そしてこんな事を思ったのです。
「何だかんだ言っても人は群れる!」「みんな一緒!」がいいのはこういう事の為なんだなと。
寒い風が吹く季節になると人恋しくなる!のは人間が群れることによって自らを守るという歴史があるからではないか、と思いました。

 

そして、今の社会は逆に「個人」「一人」を声高に叫び始めています。  多分それは今の社会が「群れ」の縛りを強く感じられるからではないか?即ち、今の社会は「個人、個人の集まり」としての群れではなく、「群れが先行する社会」となっているからだと思のです
格差社会も同じように、「東京と言う塊、群れ」と「地方と言う群れ」に分けられ、世界では「アメリカという塊」「ヨーロッパという塊」「アジアと言う塊」・・アメリカでは「白人と黒人の塊(群れ)」「金持ちと貧乏人」と・・・・・限が無い程この社会は「塊(群れ)」を作り始めています。まるで昔がえりです。
何故でしょう?私は今の社会で「自分と言う個」が守りにくくなってきているからだと思うのです。「群れを作って自分を守る」を又、目指している。という事かも知れません。そこでは「個」よりも「群れ」が優先されます。「個よりも群れが優先される社会」は戦争が起こりやすいと私は考えます。殺人は「個」が起こしますが戦争は「国という群れ」が起こすからです。

馬鹿な思い込み パート2 ホワイトデーに

お店をやって43年、「まったく進化しない!バレンタインデー!」と前回書いた。                                      で、今日!ホワイトデーである。

この日のベティブーフは男性のお客様が圧倒的に多い。何故かは前回の「女も馬鹿だが!・・・・」を読んで頂いた方にはお分かりの事と思う、が、「世の中の思い込み」を払拭したく敢えてもう一度申し上げておこうと思う。特に思い込みの強い女性の方、或いは「常識!」とか「当たり前」とか「ふつう!」とか振り回して平気でいる女性に申し上げたい!

世の男性の多くはバレンタインデーにチョコレート等欲しくもないし、ましてや「義理チョコなど貰っても嬉しくはない!」のである。にも拘わらず、同じことを繰り返して平気なのは「進化していない!」という事なのだと思うのである。                                確かにそれでも、女性は様々な機会に「花を贈る」ことはする。これはある意味不思議である。多分だが、社会的役割分担!の可能性が高いと私はおもっている。すなわち、炊事、洗濯は女性の仕事!的な・・と。 これが災いしてか「男性に花を贈る心」が抜け落ちてしまった。という事なのではないか?                                      今日も、多分明日も「結婚記念日に花を贈る」のは男性が圧倒的に多い事!これは世のすべての女性にしっかり知っておいて欲しいことなのである。

 

馬鹿な思い込み・・・おんなの男感・おとこの女感

 

「とにかく女も男も馬鹿だ!」と思う事が多い。これは感覚としてではなく、客観的に理論的にである。                                    何故そう思うのか?こんな事をここでしたためると、顰蹙ものでまたまたお客様が減ると、あの彼女に言われそうなのだけれど、書かずにはいられない気性はいかんともし難いので、お許し頂こうと思う。        で、話の発端は長年に亘り言われ続けてきた女性陣から発せられる  「男性の方なので!」あるいは男性陣から発せられる「女性なので!」という言葉であり、こんな風な言葉が続くのである。                    「お年寄りの方なので・・」                            だから何なんだ?!と私はいつも思っている事を皆さんは多分知ることもなく今まで来ていると思う。                          女性のみなさんはこの言葉の後に「男性の方なので・・・あまり可愛いより」と口を濁す。ここに「お歳の方なので・・・・」と入れば私は殆ど怒りを感じているのだが、言われている女性の多くの方は全く意識できていないのである。                                       男女差別を言われて久しいけれど、男性より女性を「下に見る」という傾向を今までは戒めてきているようだが、差別は逆もなり立つことを社会は理解していない。たとえば、                        かの「バレンタインデー」である。チョコレート業界の策略は見事功を奏し、今では殆どの女性はこの日、いつもより高級なチョコレートを自分に買っている。日本では「女性が好きなもの」を考えて「バレンタインデーには男性にチョコレートを贈る」ことにしたのであって、独りよがりな思い込みを利用されたのである。これにまだブランド志向の女性さえ気づいてない。ここまで、思い込む日本の女性陣であるが、では、男性が「チョコレートパフェを好きか?どうか?」と同じように、j可愛い女性が好む可愛いものを男性は、好まない!と思っているのか? という事である。                                         「女性の化粧は異性の為のものではない!」と言われる方もおられると聞くがはたして言い切れるのか?                       中島みゆきの「化粧」という歌がある。                       「化粧なんてどうでもいいと思っていたけれど、今日だけは・・・」という歌詞に込められた女性の気持ちは本物だと私は思うのである。」 つまり、男性は老いも若きも「可愛いもの」「美しいもの」が好きなのは女性以上にあるのであって、世の多くの女性は大いに勘違いをして居られる!のである。そしてこの思い込みを女性に植え付けてしまった男性陣にはこれ以上の責任がある。と私は思っている。 

つづく 

    

「神」について

 

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四十五年前、教師を辞め「歌」の世界を目指したのは、「渡辺歌子」さんが歌った「黒ん坊の神様」というシャンソンが大きなきっかけでした。  強烈な感動を受けました。

「何故?神様は・・・キリスト像は・・・黒人ではないの?・・」という詩だったと思います。                                  そして、現在、私は「人」を「神」が創ったのではなく、やはり「神」は「人」によって作られたのだろうと、思って居ます。「神」という存在が居るかいないか?ではなく「宗教」という名の元にある「神」は作られたという事です。( 「神が居る」とか「居ない」を論じることは即ち「人が決める」事になりどちらにも矛盾が生じます。)

数限りない宗教が存在します。それは人種の違い環境の違いによって作られたからだと思われます。それにしてもイスラエル、或いはインド等肌の色がどちらかと言えば白くはない人種から生まれた宗祖にも拘わらずキリストも仏陀も肌の色は白く描かれるのは何故でしょか? それは多分、その宗教が根付いた歴史と地域が影響しているからだと私は思います。 例えば、始まりは中近東「イスラエル」なのにヨ―ロッパのほとんどの国の人がキリスト教徒の様に。です。

( この日本にも宗教はあります。が、一神教の宗教が殆どの世界の中でこれほど「神」という存在がよく言えば「おおらか」で悪く言えば「なんでもあり」という国というか人種は珍しい。「メザシの頭も信心から」と言われる程です。)                                 今回の命題の「神が人を創った」のか「人が神を作った」のかについて何故洗礼まで受けている私が「神は人が作り出したもの」と考えるようになったのか?を特にキリスト教の聖典である「聖書」の旧約聖書の「創世記」の冒頭から取り上げてお話しさせて頂こうと思います。

つづく ・・・

「辞典」の重さ

繰り返しになるが、辞書というのは「重たいもの」・・と観念しながらこの頃一ページづつ読んでいる。                                    この歳になって老眼用に虫眼鏡携え辞書を読むというのはなかなか苦労である。特に「漢字辞典」ともなるとかなり重たく、さすがにこれは寝転がって読むものではないと痛感している。                 これに耐えながらも読んでいくとなかなか薄っぺらなページの癖に全く先に進まない。なぜかというとひとつの文字に[注]等、様々に観なければならない事が多い。これを飛ばすと全く読んだ気がしないので、これも我慢して読む。それでもあまりに進まないときは「この辞書は何ページあるんだ?」などと一人ごちて、ページをパラパラめくってみたりする。「~ん、約1600頁ほど・・・・とすると1600頁割る365日では・・・・」等と思い描き、気を取り戻して読むのだが、ある時はたと気が付いく。「問題はページ数ではない」と・・・                          「一ページに含まれるその知識と歴史は並大抵のものではない」と気づくのであります。

その例を先の「歰」に続いてもう一つ。

・・・・・・・で、実は、この始めのページの一番最初の文字の「一」で躓いていたのである。そもそも、「一」という字が何で「イチ」と発音するのか?又、別に「ヒトツ」とも発音するのか?ここから疑問が湧いてしまったから大変である。そしてそれを追うように「壱」とも書く。元の字体はパソコンで不通に変換可能な「壹」ではなく、「壺」という字だという事にたどり着くのである。   ここに至って「壱」というアンシンメトリーな文字が「壺」というシンメトリーな文字が元だと知ればこれは唯事ではない!!とやはり思いを深くし、感心し!「ここには人間の歴史がある!」ともう一度感心し、心を入れ替えて、「この辞書の使い方」から読んでいる。という理由である。

 

 

「歰」という文字

 

最近、なぜか思い出したように「辞書」を手にとることがある。パソコンをわざわざ開いて「検索」するのと、どちらが面倒か?は判らないが、「辞書」は重く「活字」も小さいため、老眼鏡に虫眼鏡をもって見なければならず、不便ではある。

それでも、その重さに匹敵する人間が紡いできた歴史を感じる事が出来るのは「辞書」ならではないか、と思っている。               辞書の初めから大まかに読み進んで、「一」から見ていく。「一」に纏わる「孟子」などの言葉を引用されているものまで見ていくと、とてもではないが全く先に進まない。未だ二日もかかって一ページを読んだだけである。しかも、こんな脚注「463頁」まであれば尚更である。そしてその「463頁」で見つけたのがこの「歰」という文字だった。           はじめて目にする文字は「じゅう」あるいは「しゅう」などと読むらしい事そして、この文字の成り立ちが「止」という文字が上下左右逆さで書かれていて、「進もうにも進まれない様子」を意味するとある。       逆さ文字どころではない、文字そのものが「逆さ」を利用して作られていたのである「左右逆さ文字で在り、上下逆さ」なのである。                                    たった一ページ目の「463頁」というだけの指示でここまで来てしまう事に畏れさえ感じた。以前「舟を編む」という映画を観て、本(三浦しもん著)を読み、感動した事を思い出した。                                「辞書」を手に取ってこの感動を事実として味わっている気がした。   ここに詰まった日地の歴史と人の思いはとても残り少ない私の一生では受け止めることなど不可能である。と思うと同時に、だからこそ、ひとつひとつこれを編み、紡いだ人たちの思いを大切に観ていこうと思ったのである。そして、これからどんな文字に出会うか!興味深々でもある。

「 言葉 」 と 「 文字 」

「言葉」と「文字」はどちらが先に生まれたか?                       わしは「同時」であろうと思っています。 但し、勿論文字とは云え今で云う所の「記号」であったり「絵」の類です。また、言葉は危険を伝え合ったりする「吠える」ことや、単に「唸ったり」して好き嫌いを表現する程度のものだったと考えられます。       これらの「描く」が「書く」に又、単なる「声」が「言葉」にという行為がどのように変化し進化したのか? 人類が文化と言うものを作ってきた原点がここにあるという事だけは解ります。

「ラスコー」

2017.7.23

ひろ

たとえば、地球の裏側って・・・・・

 

たとえば地球の裏側 ・・・・とか言いますが ・・・・・

元を正すと球体である「地球」に裏側なんてある訳がないのです。こんな突込みが通用するかどうか解かりませんが ・・・・地球が回っている事と「時間が在る」というのは違うのではないか、という事も有りうる気がします。                      地球が一回転して「陽が昇り、日が落ちる」という体感が「時間」というものを「在り」とした気がしてなりません。確かに元に戻らない過去というものはありますが、それでは同じ軌道をぐるぐる回っている地球との関連性はどうなるのか?

たとえば今!朝を迎えた時間とその裏側の夜を迎えた時刻同じ「時」ではないのでしょうか?                                             朝の方が夜より先だという(その又逆さも)根拠がない限り、即ち順番が無い限り、これは同じ時刻なのではないか!という事なのです。                    私には難しすぎる命題なのですが、(多分「相対性理論」を持ち出すことになりそうなことなので)。                                                 地球を飛び出して行く飛行体の「時間」「時刻」を考えることに、そこから先は「むかし話の世界 浦島太郎の世界」へ繋がってゆく事になって又、ひとめぐりということになりそうです。                                              みなさんはどう思われますか?

2017.7.23

ひろ

 

「逆さ」の世界  ・  歴史

「諸説あり!」というテレビ番組を観ていた。今回は「邪馬台国は何処にあったか?」という「諸説あり」だった。この命題は江戸時代からあったもので今も謎のままである。私が好きな教科も歴史、それも日本史(世界史は扱う範囲が広すぎて頭がこんがらがった)。という事で、これはかなり難しいらしいという事は知っていた。          それをさらに裏付けるような話である。しかも現在では日本国中から名乗りを上げているというのだからややこしい。                                 これに輪をかけて難しくしているのが「遺跡の発掘」である。そこを開発される事にならない限りされないという事なので、新たな証拠が出てくるまでには相当時間が掛かることになる。   そもそもこの邪馬台国も中国の書物三国志の中の魏志倭人伝に出てくるだけのものであって日本にそのような書物も記されたものも残っていないのだから「何処にあったか?」の問題以前ということだってあり得る。魏志倭人伝がそもそも「晋」王朝が自分たちに都合の良い様に書いたものと考えて間違いないので、よそのちっぽけな(邪馬台国の邪も卑弥呼の卑もそれをあらわしている)多分そう思っていた)国のことを詳しく調べて書き綴ることなど有りえない!のであるから書かれている記述が「確かなもの」であるとは言い難い。      前置きが長くなった。私が今日言いたいのは「歴史とは勝者」に都合よく書かれた記録であり、おおよそ「正史」等とつくものはその時権力を握っていたものが作った歴史なのであるという事。「敗者が残す歴史」などはある訳もなく。あるとすれば勝者が打ち滅ぼしたものの祟りを恐れ、建てた「墓」か「墓標」か「寺」か「神社」だけなのである。                  であるから、「逆さから観た歴史」はいつも大きな声を挙げて訴えられるものであり。いつの時もその時の権力にとって都合のいいものではないのである。今ある寄って立つ権力を正当化するために、残されてきたものの「歴史」だからである。          「逆さ」の歴史は、故に作れないのである